formerbankclerkのブログ

元銀行員が呟く『笑いと涙の半生、あと若干の夢』

大学受験

大学受験を通して、当時の思いや心情、夢に向かって全身全霊でぶつかっていった時期のことをお話します。私の闇でもあり、輝いてもいた時代。

では、『見せてもらおうか。その半生とやらを。』

 

《高校時代》

通っていたのは近畿大学附属和歌山高校。略して近附(きんぷ)。大阪の近大附属高校の姉妹校だ。場所は大阪との県境にあり、自宅から片道2.5時間。めちゃんこ遠い。

県内2位の進学校で坊ちゃん校、制服がブレザーということもあり、鼻についた他校の奴らから中等部(※近附は中高一貫校)の生徒が殴られる事件がよく起きていた。

生徒数は県内では多いほうで、1クラス40人×10クラス。クラス分けは露骨に成績順。当時最も優秀だったのが10組で新AD(新アドバンスド)と呼ばれ、主に最難関国立大の理系を狙うクラスだった。1組と2組は中学からのエスカレーター組でこちらも優秀。さらに8組と9組はAD(アドバンスド)と呼ばれ、難関国立大を狙うクラスだった。8組が文系寄り、9組が理系寄りだったと思う。残る3~7組は私立専願クラスで7組から3組に下るほど成績下位のクラスとなる。私は1年時は9組、2年時と3年時は8組に在籍していた。

高校時代は勉強量が不十分で成績は極めて低調だったが、第一志望は阪大と決めていた。関西では東大・京大に次ぐ知名度がある上、自宅から近く通い易い。難易度的にも最難関ではなかったことから周りでも阪大を目指す生徒は多かった。ちなみに当時の近附では東大・京大に入るのは毎年せいぜい4~5人であり、大多数は阪大・神戸大を第一志望とし関関同立を併願する形だった。もちろん地元の和歌山大や近大へ内部進学する人も多かった。

私にとって現役時の受験結果は目も当てられないほど酷いものだった。超難化したセンター試験では約70%しか取れず大コケ。ただ二次は予定通り阪大へ出願した。受かる見込みはなかったものの、翌年を見越した判断だった。結果は案の定『不合格』。阪大は各教科とも非常に難しく、科目を通じて難解な設題文章を解釈し自分なりに咀嚼した上で自らの言葉で記述回答する力が要求された。唸るような問題ばかりで、数学に至っては鉛筆を持つ手が動かなかった。昼食時のおにぎりも味が全くしなかった。。。

 

《一浪時代》

こうしてあえなく浪人が決まったが、がっかりはしなかった。むしろ、もう1年改めて勉強し直せて嬉しいという気持ちだった。

勉強開始も早かった。自宅が市街地から遠かったことから早々に宅浪を決意、3月には勉強をスタートさせていた。教材は現役時代からやっていたZ会を軸に据えた。ただ、苦手な国語だけは週1で予備校に通うスタイルとした。予備校に籍を置くことで模試や入試の情報を得たいという目的もあった。

宅浪時代はまさに勉強一色だった。朝は8時に起き、まず英語から取り掛かる。「速読英単語」や「基礎問題精講」をやった。次は日本史。こちらは「関関同立の日本史」や「早慶の日本史」をこなす。午後からは数学と国語。数学はZ会と「青チャート」、国語は「出口の実況中継」をやった。夜は21時くらいまで勉強していたが、これ以上やると毎日継続できないため8時-21時をルーティーンとした。かなり苦しかったが、祖母の入れてくれるコーヒーや父親の夜食の差し入れなどに支えられた。

予備校についても触れておきたい。大手に行く気はなく、和歌山中央予備校という地元の小さな予備校に通った。国語のみの受講だったため友達も出来ず、昼食は和歌山駅近くの地下にある喫茶店でひとりオムライスを食べた。暗い店だったが、女将さんらしき人が作る食事は非常に美味しかった。国語担当の女性講師は私を非常に気にかけてくれたが、校長とは折り合いが悪かった。というのも、入校時に校長から言われた思いがけない一言が最後まで許せなかったからだ。入校に当たり過去の模試結果をもとに志望校について校長と話したとき、開口一番『君のレベルで同志社を受けてもらっては困る』と言われたのだ。直感的に生徒の想いより予備校の合格実績を重視していると感じた。確かに私は現役時代に同志社大学に落ちていたが、受かる手応えを掴んでいたため今年も受けるつもりでいた。それを頭ごなしに否定されたことから、私はかなり頭にきてそれ以降のことは覚えていない。ただ、心に強烈な炎がひとつ灯った。『同志社どころか受験する大学すべてに必ず合格する。やってみるさ!』と。

入校後すぐの模試の結果が良かったこともあり、この校長は私に早慶の受験を勧めてきた。自身が東京の大学を卒業したこともあったのだろうが、合格実績を稼ぎたい意図は明らかだった。当初私は『阪大と同志社しか受けるつもりはない』と早慶受験を断っていたが、あまりにしつこかったため阪大受験への負担が少ない学部に絞り早慶を受けることにした。

勉強漬けの日々を送っていた私だが、秋頃に阪大オープン模試を受けた。その際、偶然だが近附の同級生に会った。浪人していたとは知らなかったので驚いたが、聞くと彼は一旦ある大学に入学したものの、行くのが嫌になり阪大を受け直す予定でいるとのことだった。今まで受験というのは一人で闘うものだと思ってやってきたが、このときばかりは胸が熱くなり、二人で阪大合格を誓い合った。

1月になり迎えた2度目のセンター試験。結果は約80%の出来。阪大に受かるには最低でも85%必要と考えていた私は少なからずショックを受けた。ただ、かといって全く諦めざるを得ないほど悪い結果でもなかった。それが私の二次出願を迷わせた。リスキーでも二次での逆転に賭け阪大に出すか、それともワンランク下げて神戸大に出すか。自分を信じるか、周囲の意見に従うか。夢を追うか、現実を受け入れるか。人生の分岐点だった。悩んだ末の結論は『神戸大へ出願』だった。夢を諦めた瞬間だった。これまで掲げてきた目標は何だったのか。何のために毎日12時間も勉強してきたのか。灯した炎を自ら消すのか。何度も自問したが、その時点で私大に受かっているわけでもなく、現実的にはこうせざるを得なかった。すべてはセンター試験の失敗に帰せられる。周囲に阪大受験を認めさせるだけの実力がなかった。これまでの努力とは裏腹に早くも崖っぷちに立たされてしまった。私は人生最大のピンチを迎えていた。

2月に入り私大受験が始まる。最初は因縁の同志社(法)。科目は英国社。センター試験の失敗が尾を引き、試験では英語の長文がスムーズに読めず苦戦していた。一呼吸置くべく問題を解くのを1~2分止めた。そして今までの浪人期間を振り返った。当初の志、眠れない日々、家族の支え。このまま終わるわけにはいかなかった。気合いのスイッチが入る。それ以降は怖いくらいに順調に問題が解けていく。試験終了後は確実に受かったという感触が残った。

2月中旬以降、早慶を受験するため上京した。東京は中学の修学旅行以来でとにかく寒かった。まずは慶應(商)。科目は英数社。銀杏並木を通り会場へ入った。受験番号は1番。席は最前列の一番右端だ。目の前に外人の試験監督官。ビビりながらも問題を解く。慶應はとにかく英語の問題文が長い。スピードが求められたが速単で養った速読力がここで活きた。数学では前日復習した証明問題がそのまま出た。このときは思わずガッツポーズが出た。数学の試験が終わったとき、私は合格を確信した。

次は早稲田3連戦(政経、法、商)。科目はいずれも英国社。早稲田は人が多かった。人の波でなかなか会場に着けない。席も3人掛けの椅子で真ん中の人が立つには両脇どちらかが退かなければならないなど環境は非常に劣悪だった。最初の政経では前の席の受験生が足元に置いた空き缶を試験中もカンカンと蹴っていた。ただ、この日の私は受験生活の中で一番精神が研ぎ澄まされていた。早稲田独特のクセのある選択問題の答えが自然と分かる。ひっかけ問題もどこがひっかけか分かる感覚があり、そういう精神状態になったのはこの日が最初で最後だった。いずれにしてもこの日の私は神懸っていた。2日目は法だったが、急な疲労感のためあまり力が出せなかった。問題自体も難しかった。3日目の商に至っては疲労困憊で正直なところ記憶がない。

満身創痍で和歌山に戻ってきたが数日後には神戸大の二次試験が迫っていた。できることは限られていたが、最後までやり抜こうと自分に鞭打った。試験当日は体調が悪かった。喉をやられ、鼻水も止まらなかった。神戸大は六甲山近くの高台にあり、登るのに息が上がった。試験中は詰めたティッシュから鼻水がポタポタ垂れた。答案用紙をびしゃびしゃに濡らしながら問題を解いた。体力が限界に達しており、気力だけで凌いでいた。神戸大のときもこれ以上の記憶はない。

 

《受験結果と進学先》

すべての日程を終え、進学先を決める段になった。私は迷わず早稲田(政経)を選んだ。理由はネームバリューのみだった。『受験する大学すべてに合格する』という当初の目標は達成できなかったが、結果には納得していた。阪大から神戸大に出願先を変更したときは本当に悔しかったが、全力を出し切ったという思いから諦めはついた。

 【受験結果一覧】

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《受験を振り返って》

私の場合は第一志望の阪大には行けず、当初渋々受けることにした早稲田に救われる形となった。あのとき神戸大ではなく阪大に強行出願していればと今でも考えるが、当時の判断に後悔はなく、反省すべきは余裕を持って阪大を受けられるだけの実力を付けられなかったこと、突き詰めれば高1、高2のときの勉強量の少なさにある。

受験では学力だけでなく、人としての総合力が問われると思う。基礎学力はもちろんのこと、反復継続する忍耐力、逆境を跳ね返す精神力、連戦してもバテない体力、そうしたマルチな力を積み重ねた者が合格という2文字を手にする。

置かれた環境によっては国立大しか受験できない人やそもそも大学受験すら諦めざる得ない人もいると思う。そうした意味で受験は必ずしもフェアな戦いとは言えないが、受験を通じて少なからず得られるものがあるのも事実だ。私は受験を通して精神面を鍛えられた。困難な状況に陥っても突破する根性を身に付けることができた。受験とは単なる学歴ゲームではなく成長を促す通過儀礼と考えれば、チャレンジする価値は十分にある。たとえそれが失敗に終わったとしても努力した事実は消えて無くならない。その後の人生に必ず活きてくるので、若い方にはこうアドバイスさせて頂きたい。

 ”積極的に競争を”

 ”正面から真剣勝負を”

 ”その時々で全力を出し切ることが最も効率のよい生き方だから”

こう言い残して私は『先を、急ぐ』。 

 

補記事項

  • 高校時代、柔道の授業のみを行う副担任のO(オー)という教師が校内試験中に私のカンニングを疑うということがあった。この教師は近大出身で近大柔道部にO(オー)ありと有名だったことをよく自慢するような教師だったが、前の席の椅子と私の机の僅か20㎝くらいの隙間をわざわざ通り不正がないかチェックした。別の日、柔道の授業開始時に出欠の返事をしたところ、「ハイッ!」と数回言っているにもかかわらず聞こえないふりをし、欠席扱いとされた。もちろん私はカンニングを行っていない。副担任と言えど行き過ぎた行為は教師失格と考える。この場ではっきりと謝罪を求める。